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鉤手守法

柔法で初めに教わるのが「鉤手守法」である。
手首や腕、または襟や袖などを掴まれて連行や加撃をされた場合の対処として柔法を学ぶ。この時に、まず鉤手守法から入る。この鉤手守法の目的や意識についてをまとめてみよう。

鉤手守法とは、投げや連行に入られるのを防ぐためや、崩されて不安定にならないようにするために行うものである。しかし、相手は人形ではない。鉤手によって一瞬の期を逃されたとしても、再度仕掛けてきたり、変化させてくる可能性は非常に高い。
鉤手でいつまでも相手を封じることはできないことを、念頭に置いておかなければいけない。自分が崩されずに対処できる体勢をつくるために行うものであって、一瞬の攻防である。

手首を捕られた場合の鉤手守法だけでも、いろんなパターンがある。
順手の内手首・外手首、逆手の内手首・外手首があり、それぞれに押してきた場合、引いてきた場合があり、その中にも捻りや上げ下げを加えてくる場合もある。
そのいろいろなパターンの攻撃法があっても、鉤手守法には共通して言えることが、ある。それは、身体から離しすぎないということだ。腕力ばかりに頼らずに身体全体を使うことが望ましいので、肩甲骨を閉じると良いだろう。こうすることで、腕力よりも背筋を主に使えるようになる。
また、この時に大切なことは、握られた箇所に固執しないことだ。つまり、忘れてしまうことだろう。捕られた箇所を意識し過ぎると力みが生じて相手に伝わってしまう。しかし、捕られた箇所の意識をなくすと、相手は支えどころがなくなるし、自分も他の箇所が良く動くようになって居着かなくなる。
ほとんどの鉤手守法の形は、片手合掌礼を膻中から丹田のあたりにくっつけるイメージで行うと良いみたいである。
また、この時に留意することは、掴まれた箇所を丹田に引き付けるようにするのではなく、丹田を掴まれた箇所にくっ付けにいくように行うことである。
手の形にもコツがあり、五指は花が開くように緩やかに張って、手首を活かすことである。あとは教範にもあるように、指先から肩口に気を発するように廻すことである。真っ直ぐの押し合い・引き合いの力の勝負にならないように、方向を逸らすことも大切だ。

鉤手の質には2種類あると考える。いかにガッチリ掴ませないかと、掴ませるが動かし難くするという2種類である。
一つは抜技に有効で、抜く前から抜けていたりするような、握りにくく力が入らない鉤手である。もう一つは逆技に連絡させるために、しっかりと握れるが動かせないというような、相手をコントロールする鉤手である。どちらも、動かないように「踏ん張る」のではなく、崩れないようにすることが大切である。自然体で立つことを意識して行うと良い。
その他の角度や方向の違い等で、2種類を使い分けることができる。

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胴突きの意味

突き方の種が、昔と現在では違う。
まったく違うと言って良いほどに違う。
胴を着用した時の突の練習の意味が、変わってきているからのようだ。
少林寺拳法の正拳は、主に中指から小指側の拳頭を言う。
素手で胴突きを行なうと、小指の拳頭の皮が剥ける。
それで、中指と薬指の拳頭を使うことが多くなってきている。
中には、大拳頭(示指と中指の拳頭)を使う人もいる。
しかし、小指側の拳頭が少林寺拳法本来の突き方だ。
だから、小指の拳頭の皮がズル剥けするのは、実は正しい「当て方」なのだ。
ただ、「突き方」が良くないだけである。
それは、着胴での突き稽古の意味が伝わっていないからだろう。
胴は「痛くないように、怪我しないように」着けているのではないのだ。
突く者が「手首への負担(反発の衝撃)」を覚えるためであり、自分の手首の強度を知るためであり、「手首の強化」の必要性を知るためである。
「着胴の意味」と「突き方」が変化したのは、乱捕全盛期時代の判定の弊害なのかもしれない。

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突き方の新旧

現在の突き方は、突き込むような感じで引き(冴え)が弱く感じるものが多い。
拳から肘までを「棒のようにして突く」イメージがある。見た目にも衝撃も、突きに重みを感じる。だが、この突き方は鉤突の突き方として学んだ記憶がある。
昔の突き方は、ポンと軽く当てるイメージだった。見た目はすごく軽いが、深さは充分にある。
それが、胴やミットを突くことを多くやっていると、思いっきり突きたくなる衝動に駆られ、現在のような突き方に変わってきたのではないか。だから、着胴の意味が変わってきたのではないかと思う。
簡単に例えると、昔の突きは「すぐ突き」で、今の突き方は「ちょく突き」だ。
基本稽古の号令で、昔は「上段すぐ突き」と言っていた。現在は「上段ちょく突き」と言っているのがほとんどのようだ。これも、突き方を変えた原因なのだろう。

今までに、突き方を注意された時の言葉・・・・

小指側からの3本の拳頭を使う。(または、掌拳)
・カナヅチで釘を打つように突く。
・スナップで突く。
・突き上げるように突く。
・拳で以って、身を当てる。
・肘から送る。(腕のみの話)
・突きの間合は、肘が届く距離。
・スーッと、近づいて突く。
・(直ぐ)突きは、拳の質量で突く。
・振子をする。
・膝を絞る。
・腰を落とし過ぎるな。
・腕が伸びきる前に引く。
・どの間合からでも引けるように。
・当てる瞬間に、拳を握りこむ。
・引きは素早く。(冴えを鋭く)
・音がした時(当てた瞬間)には、胸元に戻っているように。
・相手を後ろに飛ばさず、手前に落とすように。
・ポンと軽く突く。
・猫のように柔らかく。
・開祖は体は大きいのに、動きは小さかった。
・開祖の突きは、見ていて軽かった。

他にもあったと思うが、記憶にあることだけでもこんなにある。
しかし、私の中でこれ等はバラバラ(いくつかのグループ)で存在していた。
たった一言のアドバイスで、これらの全て繋がった。
「『掌拳で突く』ようなイメージで突いてごらん。」
ただ、この一言で・・・。

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運歩

以前の『レの字(逆丁字)立ち』の中でも多少書いたが、改めて「運歩」について綴ろう。

前に進む時に前足から動き、後ろに下がる時は後ろ足から動くのは普通である。
しかし、行きたい方向の足から動かし、地に着いてから反対の足を動かしているようでは、二動作になってしまう。
これでは丹田や頭の高さが上下してしまい、動きを読まれやすい。
しかも、そのような動きでは反対足が残ったり、引きずるような動きになりやすい。
行きたい方の膝を抜き(抜重)ながら、反対の足で丹田を押し出すように行なえば、一挙動で運足できるので足を引きずることもない。
また、丹田から移動することを意識すれば、体軸が安定してくる。
前後左右のどの方向へでも、丹田を地面と平行移動させた方が良い。
跳ぶのではなく、スケートを滑るように意識する。
丹田が動けば、勝手に行きたい方の腰や膝も動くので、足から動く必要はない。
しっかりと「丹田から」という意識を持つことが大切なのだ。
間合を詰めよう、外そうと意識し過ぎるあまり、頭から移動していまいがちである。
これは、目線の間合では大きく移動したような錯覚に陥るだけで、実は身体は大して移動できていない。
しかも、体軸も崩れてしまい、続けて運歩をすることができない。
何歩でも続けて、前後左右に移動できるような立ち方と運足ができなければいけない。

「丹田」は物理的に存在しないものなので位置の認識は難しいが、後ろ側にあると思うと良い。
ヘソより四指下がったところとして良く聞かれるが、これだけでは前方や中央に思われるだろう。
そうではなく、もっと奥にあると思った方が良い。
仙骨の前にくっ付いているくらいに意識した方が良いようだ。

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鉤足

人間は2本足か4本足か?それとも3本足かw

人間は、他の動物と同じく4本足である。
人間の足は、他の動物との形に違いがある。しかし、これこそが人間の歩行を助けている。
足の形だけでなく骨盤や股関節の形も歩行を補っている要因であるが、それを受け止める構造が足にある。それは、「土踏まず」である。この「土踏まず」を隔てて、前足底側を「前足」、踵側を「後ろ足」と分類することができるのだ。
人間の足は1脚に2足あるということになる。2脚あるから、4本足ということになるワケだ。

4本足の動物には「踵」と分類されるものがあるが、人間で言う「膝」のような働きのもので「踵」を着いての歩行はしない。だから、「土踏まず」はない。
猿の脚や足は人間のものと似ているが、決定的な違いは拇指の位置だろう。
4本足の動物もそうであるが、拇指が後ろの方にある。
猿科の動物は、足が「掌」のような形をしている。やはり「土踏まず」を認識できないように思う。
動物は足裏(肉球)をベッタリ着けた状態(拇指以外)で歩く。
人間で言えば「爪先立ち」で歩いているようなものだろう。
他の動物は方向を変える時に、胸椎や腰椎といった背骨を湾曲させることで、前足を後ろ足の向きと違えて曲がる。
車の前輪と後輪と同じといえるだろう。
人間はというと、股関節で足の向きを変えて曲がっていく。
骨盤と股関節が発達したから可能な脚の動きである。「土踏まず」で「前足」と「後ろ足」を分けることで、その動きを受け止められる。所謂「2足歩行」と言われる人間の歩行を可能にしている。
その2足歩行は、前進なら「後ろ足(踵)」から「前足(前足底)」と着いて歩く。後退なら「前足(前足底)」から「後ろ足(踵)」と着いて歩く。

少林寺拳法が運歩を大事にしているのには、捌きに重きを置いているからだ。
前進でも後退でも転回足でも前足底から着くことで「鉤足」を使い、捌きを活用している。

「技」とは「手偏に支える」と書く。要するに、「手を支える。補助する。」という意味だ。
では、何で補助するのか?手を支えるのだから、手とは別なものだと分かる。
そう。「手と別のもの」。つまり、「捌き」なのだ。その「体捌き」や「足捌き」の命である「鉤足」。
ほとんどの動きに通じる「鉤足」。外鉤足と内鉤足を上手に使うことができれば、さまざまな運歩ができる。
これができれば、少林寺拳法の技法の大半ができたことになるのではないかとさえ思える。
しっかりと意識していこうと思う。

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呼吸法

呼吸法とは「息を整え心身を同時に鍛錬し、気力と体力を最も効果的に活用する方法」である。

長時間の場合は下腹部に結手印を結び、短時間の場合は胸前で独鈷印を結んで、体を垂直にして丹田に気を入れ、軽く目を閉じながら、鼻呼吸を原則とし、「宇宙の精気我体
中に入る」と思念しながら充分に息を吸気し、少し漏気し、息を止めて気を満たす充気を行った後に「ダーマの徳性、我に発する」と思念しながら七分呼気し、三分残気して吸気に戻ることの繰り返しであると、教範初版で説明されている。

この「体を垂直にして」というのが、腹式呼吸でないと上手くできない。
腹式呼吸ができていないと、肩が上下したり、中心軸が前後にブレてしまう。これでは動きも悪くなるし、呼吸も浅くなる。「息」は「生き」である。しかし、体術を行う者としては「活き」にまで高めなければいけない。
つまり、「心・気・力」の一致を生むために呼吸法は大切なのだ。

呼吸の仕方は、「吸気→漏気→充気→呼気→残気」のサイクルを繰り返す。
「吸気」は、鼻からゆっくりと充分に吸い込む。
「漏気」は、鼻からフムと漏れる。
「充気」は、吸い込んだ空気を丹田に溜める。
「呼気」は、口から細く長く吐く。または、吐気という。
「残気」は、全てを吐いてしまわずに、若干残す。
この際、「充気」が一番大切で、体中に気がしっかりと行き渡るイメージをしながら行う。
呼吸法を始める時は、まず軽く吐けば、楽に始められる。

腹式呼吸ができているかチェックする方法は、仰向けに寝て呼吸をしてみると良い。
正しく腹式呼吸ができている場合は、1分間に数cm程度だが頭の方向に進んでいく。
ちょうど、イモムシが歩くようなイメージである。

「呼気」と「吐気」を使い分ける場合があるが、使い分けは次のようになる。
「呼気」の場合は鎮魂行など静禅の時で、「自己を呼応させる」「自己を呼び起こす」という意味を持ち、「吐気」の場合は易筋行など動禅の時で、地に立って大気大地に氣を返すという意味を持つからである。

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『幸せ』とは

人には、これが揃えば申し分ないといえることがある。

それは、『健康(心身)』『人間関係』『仕事(奉仕)』『経済力』の4つだ。

まずは、心身ともに「健康」なことである。
健康体でなければ、やりたいことも制限されてしまう。五体満足であることは、何よりも幸せなことである。ハンディキャップを抱えていても、健全な精神を持っている方は輝いている。心身ともに「健康」であることは、至極幸せなことである。

次は、「人間関係」である。
家族や親戚だけでなく、友人など「仲間」がたくさんいることは、とても力強いものである。喜びや悲しみを一緒に分かち合うことができる仲間がいることは、大変幸せなことである。「信用」とは信じることを用いること。極端に例えるならば銭の貸し借りみたいなものだ!「信頼」とは信じて頼れること。人から「信用」ではなく「信頼」される人間になりたい。親しみあい援けあえる仲間を増やし,善縁を運び育てる努力をしよう。

それから、「仕事」である。
仕事とは本来、奉仕のことである。人には、得手・不得手がある。「自分の得意なことを用いて、相手の望むことをしてあげること。」であり、自分が不得手なことを得意とする人にしてもらい、それに対してお礼をする。これが、仕事の始まりなのだ。与えることに喜びを感じることができるよう、余裕を持てたら素晴らしい。

最後に、「経済力」である。
どんなキレイごとを言っても経済苦がある現代においては、やはり生活する上では何かと必要になるものだ。あるに越したことはない。

この4つが合わされば『四合わせ』、つまり『幸せ』なのだ!

10年以上も前のお酒の席での法話でしたが、少林寺拳法の教えである「自己確立」と「自他共楽」の二法門は、『幸せ』への究極の道しるべなのだと改めて実感したことを、今でも強く覚えています。

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講話の骨子10ヵ条

たまには技術以外のものも書こうと思います。
指導員としての心得を、お師さんから聞かせて頂いたことです。
お師さんがお山に居た頃、おヒゲの爺さんに言われていたことだそうです。

【講話(教え)の骨子10ヵ条】

①弱いものいじめをするな。身を以って守ってやれ。
②決して負けたと思うな。今から精進の始まりと思え。
③信頼されたら裏切るな。善縁は運び育てる努力を惜しむな。
④身につけるには、毎日の繰り返しの地道な努力を惜しむな。
⑤自分を認めて、自分自身と上手につきあうことを身につけろ。
⑥拳法バカにはなるな。いろいろな事に興味を持ち、取り組め。
⑦友達・仲間は、お互いに力になり合うこと、支え合うこと。
⑧先生・先輩には敬意を、他人や後輩には思いやりを持て。
⑨明るい、さわやかな前向きな人間になろう。
⑩喧嘩の仕方を覚えろ(最後は話し合い・双方の納得である)。

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生きた法形(柔法)

法形を生かすための分類として「法形の応用」「法形の変化」「法形の選択」があると剛法編で挙げたが、柔法の場合は取り入れ方が若干違う。
まず、「法形の選択」から入る。効きが悪い場合、逃げられた場合に連絡技に変化をさせる。それでも、まだ効かせられない場合には、当身等を加えたり圧法を併用したりして応用するようにする。

攻者が順手で外手首を握ってきた時、基本的には引かれたら寄抜で押されたら巻抜を行う。方向やタイミングの違いによって、二段抜や肘抜にも変化する場合がある。
攻者が同じ引いてくる動きでも、順手と逆手では寄抜と切抜に変わる。内手首と外手首では、小手抜と寄抜に変わる。
このように、攻者の攻撃によって技が変わるのは剛法も柔法も同じである。攻撃法の変化に合わせて技を選択できるよう、攻者の握り方を限定して、押す若しくは引いてもらい、適切な技で対応できるよう修練しなければいけない。
まずは、攻者は片手のみで抜技を反復稽古する。抜技が止まらずにできるようになったら、逆技も行うようにしなければいけない。

◆攻撃法の変化による選択
 ○抜技の例
 ・寄抜と巻抜
 ・切抜(外)と十字抜
 ・巻抜と押抜
 ・二段抜と肘抜
 ○逆技の例
 ・送小手と押小手
 ・袖捕と袖巻
 ・切小手と切返天秤
 ・巻落と外巻落

◆掴み方の変化による選択
 ○抜技の例
 ・寄抜と小手抜
 ・押抜と切返抜
 ・巻抜(内)と巻抜(外)
 ・上膊抜と袖抜
 ○逆技の例
 ・逆小手と押小手
 ・切小手と小手巻返
 ・十字小手と巻小手
 ・襟十字と片胸落

◆効かない時、逃げた時などによる変化
 ○逆技の例
 ・逆小手と龍投
 ・送小手と送横天秤
 ・逆小手と外巻天秤
 ・切小手と切返小手

◆変化技でも掛かりが悪い場合の応用
 圧法を併用したり、攻めの線を保ったまま脚刀刈や熊手突等で加撃して制圧につなげる。

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生きた法形(剛法)

法形を生かすための分類として、「法形の応用」「法形の変化」「法形の選択」があると思われる。
「法形」とは実践の中で起こりうる動きの一部を、理法や動きを「強調し抜粋」したものであるから、間合・体勢・タイミング等さまざまな条件下で適した形にしなければいけない。だから、「型」ではなく「形」なのだ。

《法形の応用》

人には利き腕や利き足があり、性格や好みでも攻撃法はいくらでも変わる。
法形を演練する際には、まずオーソドックスな形を学び反復稽古するワケだが、慣れてくると前後左右順逆表裏内外と幅を広げていかなければいけない。
『法形の応用』は、主に布陣法や体勢で使い分ける。

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《法形の変化》

『法形の変化』は、オーソドックスな形からの反撃法の違いである。
これは受けた時の間合の違いから、有効な「急所の位置」「間合」「角度」に応じて、攻撃法を変化させる方法である。
振突も鉤突も「突き」である。内受して「突き」を行えば、それは充分に「内受突」なのである。
「当身」が「身を当てる」ということを考えれば、「突き」や「蹴り」は「体当」と同じである。
上肢を用いた攻撃は「突き」、下肢を用いた攻撃は「蹴り」と大きく分けて考えて、自由度を上げるよう修練する必要がある。

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《法形の選択》

『法形の選択』は、攻者の攻撃法が同じ場合に守者の状態に合わせた法形を選択する方法である。
間合や体勢などだけでなく場所や人数といった状況までも仮定して、その状況に適した法形の選択する稽古まで発展させると良い。

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剛法と柔法

『剛法』とは、我と彼とが激突して彼を倒そうとする技のことを言う。
その力の伝え方は、「関節の連動による力の伝達」といえる。
初めのうちは、攻技にしろ防技にしろ自分の関節を連動させることにより、関節毎に加速させて力を伝えることを意識する。慣れてきたら、丹田を中心に全体に爆発するように伸びていくように行う。
突きの場合で例えると、前者は足首→膝→腰→肩→拳という感じになる。それに対して後者は足首←丹田→拳というふうになり、拍子が速くなる。
他には、前者は「うねり」を使うので「居着き」が起こりやすく、後者は「うねり」がないので軽くなるのだ。うねるとは踏ん張ることで可能になる動きであるから、居着きやすい。うねらないことは踏ん張りをなくすことになので居着きにくく、運歩がスムーズに行えるということになる。

『柔法』とは、我と彼とが接触した状態で変化を起こし、彼を制しようとする技を言う。
その力の伝え方は、「関節の連結による力の伝導」といえる。
逆や倒しで例えると、「線」をつくり相手の関節を連結させることで、力を伝え相手を操作することである。投げや倒しでは「線」を作って「点」で攻める意識、固めでは「面」と「点」の違いを意識して行う。そして、この時に力を伝えるためのコツが「圧力」を使うことであり、そのために自分と相手の「腕の一本化」を使うことである。

剛法でも柔法でも共通していえることは、「先に開展(大きく伸びやか)を求め、後に緊奏(小さく引き締める)に至る」というところだ。大きく動くことで大きな力を手に入れ、徐々にムダをなくしていき動きを小さくしながら鋭さを増していくように稽古しなければいけない。
そして、剛法の延長に柔法があり、柔法の延長に剛法があるという意識も大切である。また、剛法の中にも柔の要素を取り入れ、柔法の中にも剛の要素を持ってくる。そうすることで、本当の「剛柔一体」といえるのだと思う。

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八方目

級拳士用の科目表の一番最初(3級科目の第1週)に「目配り」とある。
何故、最も最初に習うのか?
たしか剣道界の言葉だったと思うが、古来より「一眼二足三胆四力(いちがんにそくさんたんしりき)」という言葉がある。
これは、修行の大事な要素を重要度に応じて示したものである。
どんなに優れた技術をもっていても、動静を察知する「眼力」がないと使うことはできない。
その眼力を養うことが最も重要なので、少林寺拳法でも初めに「目付け」として「八方目」を初めに教わるのだ。
初期の頃は「見る」ので精一杯だろうが、最終的には「観る」にまで発展させたい。
目で追うのには限界があるし惑わされるから、気配を感じ取れるように意識することが大切である。

【八方目】

「八方目」とは、視界全体を同時に把握することである。
視界の端にいくほど、大きさや色や形など実体を完璧に把握することは難しい。
だが、それを把握する必要はない。
どこか一点を見つめれば、焦点はそこに合う。そうすれば、周りはボヤけてしまう。
一点を見つめるのではなく、視界全体にある全ての存在を認識する程度にボンヤリと見るのが良い。
これは、相手に焦点を見抜かせないという利点もある。
実践をするのであれば相手の人数や位置関係、足場や障害物といったものを把握できれば良い。
相手への「目付け」をどこにするのかは人に拠って様々だろうが、仏骨あたりを見るのが良いだろう。
対峙している相手だけで考えれば、下は膝までが見えていれば良いのだから・・・。
膝までで良い理由は、「重心の移動(*1)」と「重心の移転(*2)」のどちらも共通する最下部が膝だからだ。
相手の眼をみることで恐怖を感じるのであればなおさら、眼から視点を外すことが居着かないコツでもある。

八方目の鍛錬法にはいろいろあるだろうが、私が学んだものを2つ記します。

一つ目は、周りを数秒間見渡して記憶する方法。
どこに人がいたか、何色の服を着ていたか、どこにどんなものがあったか等を記憶して、瞬時に視界全体の人や物を認識する鍛錬法。

二つ目は、二人一組で両手を広げて向かい合って立ち、鏡の動きをする方法。
動く人と真似する人を決めて、動く人は手先・足先を動かす。真似をする人は、鏡の動きをする。
まずは一足一拳の間合から始め、手が触れる程度の間合でも行えるようにする。

*1・・・運足により、重心を移すことを「重心の移動」と言う。
*2・・・前屈立や後屈立などで、重心を移す方法を「重心の移転」と言う。

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「構え」で大切なこと

「構え」で大切なことは何か?
さまざまな武道があるが、そんな中で「無構え」というものを耳にしたことがある。柔道でも「自然体」というものがある。
我等の少林寺拳法でも、立無相構とも待気構とも言われるお髭を撫でる開祖のあのポーズもそうであるが、これといった構えはないがどれも気構え・心構えができている状態である。
いつでも、安定して、楽に早く動けることが大切なのだ。
信号待ちでアイドリングの状態の車と、エンジンをストップしている車とでは、信号が青になった時、どちらが早く走り出せるか?
これが心の準備であり、心構えということだと思う。それができていない時、「居着き」になると思う。フットワークを使えば、これが楽に行えるのだ。しかし、ボクシング等で見られる華麗なフットワークは、東洋の武道ではあまり見られない。でも、東洋の武道にもフットワークはある。
独楽は何故、安定して立っていられるか?
それは、重心と軸が、しっかりと保たれているからである。
では、回っている独楽に触れるとどうなるか?
触れた瞬間に弾き飛ぶが、また安定して回り続ける。
この意識が、東洋の武道のフットワークと考える。見た目には動いていないが、心も身体も準備ができている。まずはこれが大切で、ボクシングのようなフットワークを極限まで小さくしていく。すると、独楽のように軸は安定し、重心または丹田で超振動が起こっている状態になる。これが、東洋武道のフットワーク(歩法)だろうと考える。
そして、いくら少林寺拳法の技術が護身の技術とはいっても、気持ちまで護りになってはいけない。気持ちが受身になり過ぎると、相手を制圧することが難しくなるからだ。相手の攻撃を未然に防ぐように攻撃線を押さえたり、または上手く誘い込むように虚をつくるといったことが必要なのだ。
「武を用いる時に心に情けは残すな。迷いがある内は手を出すな。」というような言葉がある。
日常生活の中では、体構えから入ると臨戦態勢と思われる。
心構えができてない状態から構えてしまうと、気後れするのは自分である。まずは気構え・心構えが大切で、どうしても無事には済まされないなと感じたら構えるというようにしな
いといけないと思う。
だから、しっかりと気構え・心構えから入ることが大切なのだ。

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演武とは

演武とは音楽等と同じで、観てるものを清々しい気分にさせられるものでなくてはならない。
音楽は、ただ音が出せれば良いというものでない。テーマを持ち、それぞれの楽章で抑揚や緩急や強弱を使って、物語を演じている。
演武もまたテーマを持ち、それぞれの構成で空間や緩急や強弱を使い、武を演じるものである。
独奏ならば自分の気持ちの準備ができたら、自分のタイミングでできるだろう。それは、単独演武でも同じである。では、合奏になるとどうだろう?
指揮者の元に、気持ちを揃えて演奏しているはずだ。相対演武や団体演武には指揮者はいないが、お互いの気を合わせるという点では同じである。
この「気を合わせる」ということができていない時に演じても、バラバラな動きで不協和音となり、素晴らしさは伝わらない。気が合わさった時、合掌礼から始める。すると、構えも相手と揃う。最初が良ければ最後まで揃うもので、終わりの合掌礼も揃う。また、そうしないといけない。
最初が良くても最後にけじめがなければ、良い演武とは言えない。だから、最後まで気を抜かずに行なわなければならないのだ。
演武は演舞ではない。舞いを演じるのではなく、武を演じるのだ。気を合わせるのも、ただ合わせるのではなく厳しく合わせられるかが大事である。猛々しく行なうのである。
しかも少林寺拳法はダーマを体現するのだから、動きは猛々しくも美しくなるものだ。
少林寺拳法の技法は護身の術であるが、その前に宗門の行である。「粗」や「暴」が表に出ているものは良くないのだ。
『力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり』
はっきりとした「猛」や「威」があって、その上で「美」や「品」があるのが理想なのだ。
かの「伝説の演武(風格ある演武)」のように・・・。
演武の構成の仕方は、偏ることなく攻守を入れ替えながらが良いので、なるべくなら交互にすると良いだろう。構成方法は、1構成目と6構成目は比較的慣れた安定かつ高速な大技にすることが望ましい。1構成目を、慣れた技にすれば失敗が少なくリズムに乗りやすくなるので、後の技がスムーズに行えるようになる。それと、大技は気を惹く効果がある。6構成目は締めという意味で、大技が見栄えが良いだろう。
同じ方向への倒しや投げは、なるべく使わない。襟十字と片胸落や巻小手と逆小手などは、素人目には同じに映りやすい。
それに、技を掛けられる側の体に悪いという欠点もある。
また、剛柔一体を謳っている少林寺拳法として、剛法から柔法や柔法から剛法といった構成は非常に大事であるが、実践で常に剛柔一体とは難しいし、演武を見る側としても飽きてくる。
剛法のみで豪快に極める構成も、一つ二つ入れると良い。
演武を構成するにあたって忘れてはいけないのが、テーマである。演武が持つテーマには必須のテーマと個々のテーマがある。
必須のテーマとは少林寺拳法の教えや特徴のことであり、自他共楽や力愛不二、不殺活人といったものを指す。これらは、絶対に外すことはできない。最近は、それらすら感じられない演武が増えてきた。
個々の設けるテーマとは、自分の目標や克服したい弱点、動きの特徴などを立てること。(個々のテーマの例…「流麗かつ重厚」「飛燕の如く」「空間」etc.)
テーマを設けて演武を作ると目標がはっきりするので、是非するべきである。

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乱捕とは

乱捕とは、少林寺拳法の技法の原理・原則(拳理)を、自由な攻防の中で運用する練習のことである。
剛法乱捕、柔法乱捕、限定乱捕、空乱等など、目的用途に応じていくらでも分けるこができる。
いきなり、攻守の取り決めなしでガチンコな乱捕をしても、技法の原理・原則(拳理)の運用なんてできるはずがない。
法形の延長から空乱へ、それから攻守を取り決め攻者の攻撃を限定した乱捕を行い、慣れてきたら攻守自由空乱や乱捕、最終的には剛柔乱捕と言った具合に徐々に枠を外していくことで、乱捕への恐怖感を与えにくく、取り入れやすくなる。
当身の五要素を充分に理解し、乱捕の中で剛法の攻者の五要素や守者の五要素、柔法の五要素をできているか等、現在の自分のレベルを知り、今後の稽古に繋げるためには絶対に欠かすことのできない必要な稽古法である。
武道では「一眼、二足、三胆、四力」と言い、まずは観る力が必要と言われているが、法形の基本方向のみでは確かな眼力を養うことができない。
指導する立場にある有段者はもちろん、武道の心得があるものは、いわばプロなのである。その自覚を持って、帯の色に恥じないだけの実力を身につけなくてはならない。
自分で自分に限界を作り成長を妨げないように、体力・能力に応じた修行を心掛け、無理をしないように取り入れていくべきである。そのために、レベルに合わせた乱捕稽古を行わなければいけない。
乱捕が恐くてなかなか導入できないのであれば、おでこタッチなど恐怖感を感じ難いものから行って慣れていけば良い。
法形の「応用」「変化」「選択」など、生きた法形から延長して空乱や限定乱捕を取り入れなければいけない。
破壊行為ではないので、建設的な練習法にしなければいけない。くれぐれもケガには充分に注意し、熱くならないように気をつけて稽古することが大切である。

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法形とは

「法」とは、目に見えぬ原理原則。「形」とは、目に見えぬ原理原則を具現化したもの。
つまり、「法形」とは実践の中で起こりうる動きの一部を、理法や動きを「強調し抜粋」したものである。
だから、基本の形のみを練習していても、いざという時に対応することは難しいだろう。
打撃を好む人、組み技を好む人、又は武器を持つ人といろいろいるだろう。そして、利き手や利き足の違いもある。
そう考えたら、基本方向のみの練習では足りないことに気付くだろう。
つまり、最低でも前後左右順逆表裏内外が考えられ、他にも差込足か差替足か、単撃か連撃、立っているか座っているか、徒手か武器所持かなどがあり、それだけの変化が必要なのである。
基本の法形の大切なところは、最もオーソドックスな動きから慣れていき、感覚を覚えることなのだ。その感覚を反対の手足に移していき、応用させていくことが大事なのである。
そして、技を練ることにより、自信がつき胆が錬られてくるのではないかと考える。
そのためには、「型」にならないよう形に囚われず、生きた法形を練習しなければいけない。しっかりと体感することが、大切である。
法形を活かすためには、生きた法形を練習する必要があり、使い分けの分類として「法形の応用」「法形の変化」「法形の選択」がある。
法形を実践で運用する前の段階として、法形の延長としてそれぞれ修練すると良い。

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基本とは

基本は、「攻技」「防技」「守法」「捌き」など、突き・蹴り・体構・体捌き・運歩等といった技術の基礎となるものである。
その動作は直線運動、曲線運動、円形運動の3つの動きの組み合わせによるものである。
各部位では小さな動きだが、連動させて動くことにより身体全体が動き、大きな力になる。その後、連動させていた各部位を同時に動かすように意識していく。
こういった身体の動かし方を覚えることが「基本」なのだ。
身体全体で動くことにより、無理のない動きができるようになる。無理のない楽な動きでなければ動き続けることが困難になるので、脱力することにも慣れなければいけない。
「技」とは「手を支える」という意味である。そして、手を支えるものは足捌きや体捌きといった「捌き」である。「手と別」である「捌き」によって手を支えるのだ。「支える」とは足という意味もある。上半身は力を抜いて楽にし、安定した下半身をつくる「上虚下実」を意識することが大切である。
技は小手先のみでは上手くできないので、「内観」を意識して、しっかりと身体全体を使うことを意識しよう。

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修練体系

技術修練には「基本」「法形」「乱捕」「演武」があり、それぞれに重要な意義がある。
「基本」には突きや蹴りや受け、体構えや体捌きや足捌きがあり、技術の基礎となるもので、体の使い方を覚えるために行う。その意識的な動作を無意識に行えるよう習熟することが目的である。
「法形」は技術の原理・原則(拳理)を学び、基本で覚えた動きを相手に合わせて応用させられるよう、間のとり方や虚実のとり方の感覚を覚えていくために行う。
「乱捕」は法形を自由な攻防の中で運用させ、自分がどの程度できるのかを試し、弱点を把握するために行うと同時に、技法の的確な連絡変化を覚えるために行う。
「演武」は、これまでに習得した法形を攻守を変わりながら掛け合い、技法の連絡変化に創意工夫を加えて演練するものである。技を無理なく連係させる練習として非常に有効で、技の連絡変化に重点を置き、質実剛健・豪壮華麗に行うように努める。

これらの意義の違うものを、偏ることのないよう満遍なく 演錬することで、それぞれに活かされ、より高みへ行けるのである。
「基本→法形→乱捕→演武」の順に、繰り返し繰り返し行うことが必要であるが、目立った欠点が見つかったら前の段階や基本に返り、繰り返し修練するようにする。
こうして「演武のような乱捕」「乱捕のような演武」が可能になり、乱捕と演武の境界がなくなり、技法が真に身についたと云えるようになる。

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レの字(逆丁字)立ち

何故、少林寺拳法では「レの字立ち」をするのか?
それは、少林寺拳法が護身の技術だからに外ならない!
前後とも前向きにした場合とレの字にした場合で、運歩を行ってみると質の差を感じることができるだろう。
剣道などのように両の爪先を前に向けるのは、速い前進突などに向いている。
が、その反面、横の捌きには弱いのである。
一歩しか転足しないならそんなに影響はないかもしれないが、前後左右に連続で転足する時、その差は歴然である。
少林寺拳法は護身術であり、守主攻従という特徴を持っている。
だから、まず護ることを考えなければならない。
その上で、反撃ができる体勢づくりが必要なのだ。
そういうことを考えた時、前後左右に自由に動けなければならない。
レの字立ちこそが、護身術ならではの少林寺拳法に最も適した「守主攻従=守即攻」を実践できる足位法なのである。
また、運足の仕方は、スケートをするように行うと良い。
跳ぶのではなく、滑るように意識する。行きたい方向の足は膝を抜き、反対の足で動くのだ。
そうすれば、重心の上下がなくなるので、前後左右へ連続で運足できる。
前進の時の後ろ足や、後退の時の前足などが残ることもない。
常に肩幅で「レの字立ち」になれるのだ。

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白蓮中段構

少林寺拳法の体構えには、白蓮八陣・義和九陣の合わせて17の構えがある。
その中で、最初に習うのは白蓮八陣の中の白蓮中段構(別名:開足中段構、正面中段構)であるが、この白蓮中段から始まる法形はない。
普通は左前か右前になり、前後の動きに弱い白蓮中段に構えることはない。
では何故、白蓮中段を最初に習うのか?
それは、基本の体の動かし方を覚えるために、バランスが取りやすい安定した形になるためだ。
初心者が左前や右前から突き蹴りをしても、バランスが悪くまともに行えないだろう。
突き蹴りどころか、振り子(振身)すら出来ないだろう。
やはり少林寺拳法は護身術であるから、攻撃の中にも護りを考えなくてはいけない。
だから、開足で左右に足を広げて構え、バランスをとり易くして振り子を覚えるである。
そして、振り子等の体の使い方を覚えてから、左前や右前に変えていく。
この白蓮中段構になる時の注意点は、爪先は正面を向けるのではなく、やや外向きにすることである。その上で、膝を絞るのだ。
そうすることで、左右への振り子が早く大きく、そして安定感がでてくるのだ。
この白蓮中段構えから、左に45度向けば左前中段構に、右に45度向けば右前中段構になる。
向きたいほうの足だけを外側に開けば、自然とレの字立ちになれるのだ。

さらに、この状態から「前屈立ち」「後屈立ち」「猫足立ち」「伏虎立ち」と立ち方を変え、手を作れば、全ての体
構えにつながる。

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結手構

拳法を修行するものが、むやみやたらと手を出してはいけない。
戒めのために手を結んで抑えようと、結手印を結ぶようになったのだ。
ホンとは、右手が下でも、左手が下でも構わなかったのだ。
だが、統制が取れてないと団体として恥ずかしいから、統一させるために決められた。
日本人を含めた東洋人には、右利きが多い。子供の頃に、矯正させられた人もいるでしょう。
それで、右手を下にした結び方で統一されたのだ。
他には、左手が上になるように重ねるのには、利き手で反撃するために反対の手で受けやすくするためという「守主攻従」の意味も含まれているのだ。
結手印の形は、神道などで使われる叉手に似ていて、金剛禅門信徒にもしっくりくるでしょう。
この結手印の結び方は、左の拇指を挟むようにして太陰肺系の経絡を押さえ呼吸を深め、手首は軽く活かして軽く肘を張り、内手刀を丹田に引き付けるようにして、気を引き締める効果を出す。
そして、両の拇指は指の腹と腹を合わせて緩まないようにする。
しかも、結手は構えであるから、脇を締めて膝を軽く曲げ「くの字立ち」になる。
しかし、すぐに動けないような、また長時間できないような、ムリな重心の落とし方ではいけない。
膝を曲げるというより、膝が曲がるという感覚である。
前足底から指の間で地面を掴むようにし、骨盤を立て、その上に腰椎・胸椎・頚椎・頭骨を真っ直ぐに乗せ、肩の力は抜いて、顎を引く。
胸骨を引き上げ、肩甲骨は開き、鎖骨を緩め、八方目をして、意識を丹田に置いて構えると、隙のない構えになる。

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